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藤田嗣治がレオナールフジタになるまで

藤田嗣治は明治の中期に生まれた画家である。そしてレオナールフジタとは彼のフランス名である。フランスを中心に活躍し日本と決別した彼の人生を追ってみる。幼いころから絵に親しみをもっていた。当時の流行の画風とは違う道を歩んでおり評価はされていなかった。それが影響し海外に自分の求めるものを探しに旅立つのであった。パリに移住するとそこは日本では考えられないような世界が広がっていた。自由な作風にも感激し実力を伸ばしていった。しかしその後、第一次世界大戦が勃発し貧しい生活はより苦しさを増し絵を燃やして体を温めるなどということもあった。数年間の戦争が終わりをむかえるころ絵が現地で評価され始め個展も開催されるようになる。当時の作品は人物画が多く女性をモデルにしたものが多かった。淡い色を基調とした柔らかい印象を見る人に与えた。フランスやベルギーから勲章も授けられるほどの成長をとげ日本に帰国するのであった。帰国後の藤田を待っていたのはヨーロッパとは違い落胆させられるものであった。個展自体の評判とは裏腹に美術界からは歓迎されなかったのである。失意のまま南米へ旅に出ることとなった。この旅で作風の変化がみられ今までの淡い印象からインパクトのある印象を与える作品がうまれた。やはり海外では高い評価をうける作品であったが世界的な不況により再び日本へと帰ることとなる。日本での生活は第二次世界大戦の影響を強く受けそれは藤田嗣治がレオナールフジタとなる決定的なものとなる。絵のテーマは戦争となり変わった。その中で新たな作風をみつけ、しかも日本での評価が戦争の中ではあったが良い方向へむかったのであった。しかし追い風も長くは続かなかった。敗戦後皮肉にも評価をあげていた戦争画がやり玉にあげられるのである。藤田嗣治として生まれた彼はこのとき日本へ決別するのである。再びフランスへ戻った彼はフランス国籍を取得し、藤田嗣治の名を捨てカトリックの洗礼をうけレオナールフジタと名前を変えた。年齢を重ね病に侵されながらも教会のフラスコ画を描き上げ生涯を終えるのであった。その後すぐに日本からも勲章受章という評価をうける。生きている間は不運にも日本からはなかなか目をむけてもらえなかった。近年になり日本国内でも彼の作品が正しく評価されるようになった。周りの作風との違いに日本を飛び出し戦争にも耐え抜き強く生きた藤田嗣治はレオナールフジタとして第二の故郷フランスに眠っている。