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藤田嗣治の生涯-その栄光と挫折、再評価

藤田嗣治ご存知ですか。レオナール・フジタといった方が、あるいはよく知られているかもしれませんね。彼は日本を代表する有名な画家で、軍医の家庭に生まれました。かなり有名な家系で、著名な軍人や劇作家、そして、元総理にも連なる家系の出身です。幼いころより絵が好きだった彼は、少年時代に画家をこころざし、美術学校に進学して、フランス留学を考えるようになります。

その当時は、日本でも、印象派の影響を受けた絵画が一般的でしたが、それとは一線を画し、もっと地涌奔放な作風であるキュビズムや、シュールレアリズムといったものを追い求めるようになります。パリに住むようになった藤田嗣治は、フランス人画家たちとも親しくなり、また、当時のパリの社交界において、花形的存在であった日本人華族からのバックアップを受けるようになりました。当初はあまり作品は売れず、その後勃発した第一次世界大戦がそれに追い打ちをかけます。数年間の耐乏生活ののち、やっと作品が売れるようになり、その後徐々に人気を高め、ついには、サロンに作品を出展するたび、黒山の人だかりができたといわれます。

一躍人気画家となった藤田嗣治は、フランスからレジオン・ド・ヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されました。しかし、時代は再び戦争へと傾いて行きました。ドイツのフランスへの侵入を避けて日本に帰国、陸軍の要請により戦争画を手掛けることになった彼は、ヨーロッパ式のリアルなタッチで当時の戦況を生々しく描き出しましたが、これが戦後GHQに咎められ、失意のうちに日本を発って、フランスでの生活を再開します。1955年にはフランス国籍を取り、その4年後には洗礼を受けて、レオナール・フジタと名乗るようになりました。往時ほどの勢いはありませんでしたが、かつての盟友との付き合いはその後も続きました。そして1968年1月29日、レオナール・フジタ、藤田嗣治は81歳で亡くなりました。死後に日本からは勲一等瑞宝章が贈られました。第二次大戦後、日本を去った藤田嗣治ですが、5人目の妻である君代夫人の尽力もあり、その後彼自身の展覧会も日本国内で開かれるようになり、日本で再評価されるようになって行きました。何よりも、当の藤田嗣治自身が、日本人であることを強く意識しており、戦争画はその意思表示であったといわれており、そのことを考えると、フランスに帰化したとはいえ、彼は立派なサムライだったのかもしれません。