エコール・ド・パリの代表的画家であった藤田嗣治が長く滞在していたフランスでしたがいよいよ第二次世界大戦へ向けた状況が厳しくなり、太平洋戦争直前の1940年にはパリを離れざるを得なくなり、日本に帰国を余儀なくされます。帰国後彼はひとりの軍人の依頼に基づきノモンハン事件をモチーフにしたハルハ湖畔之戦闘という絵画を制作し当時の美術界、軍などから高い評価を受けることになります。以降藤田は新しい領域を見出したかのように戦争画の制作に没頭していくようになります。1941年には帝国美術院会員にも推挙され、次第に日本画壇における地位も獲得していくようになります。1943年には自身が最高傑作であると自賛するアッツ島玉砕を制作し、想像力を駆使して凄惨な戦闘を意目0時で描き上げていきます。1945年にはサイパン島同報臣節を全うすと言う題名のサイパン島歓楽時の日本住民の凄惨な姿を描き戦争画に終止符をうつことになります。しかしこの戦争画の制作が、藤田嗣治のその後の運命に大きな影響を与えることになります。終戦後、日本美術会というかつての仲間が運営する会が藤田嗣治を中心とした戦争責任者のリストを作成し藤田ひとりに戦争責任を負わせようとした行為が彼の日本美術界への幻滅へとつながっていくことになります。結果藤田嗣治は日本との決別を決意し49年には日本を離れる事になりました。しかし藤田がこの当時、本当に絵でもって国のために戦うと言った言葉が本心だったのかどうかはいまだにわかりませんが、かならずしもそうではなかったという記録も随所に残されています。当時は殆どの日本画家が戦争の絵を描くという特別な環境にあったことだけは事実です。さて1970年に藤田嗣治の作品14点を含む当時の戦争画は接収したアメリカより無期限貸与といった形で日本に返還されています。現在アッツ島玉砕の絵は東京国立近代美術館に保管されているそうですが、この時代の作品をあらためて眺めてみると、当時の藤田の心情が伝わってくることになるのかもしれません。日本人初のフランス画家とよばれた藤田にも長い人生の中で戦争をはじめとすして様々に時代に翻弄される時期が長く続いたことがわかります。晩年パリの郊外のアトリエで、ひっそりと暮らした彼の生涯に対する自身の感想はどのようなものだったのでしょうか。そのあたりの心情も知りたくなるような波乱万丈の人生を過ごした有名画家でもあるのです。

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